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経正(つねまさ)
仁和寺御室御所では、守覚法親王の仰せで、西海の合戦で果てた平経正の法事を執り行う事となりました。経正が生前愛した「青山(セイザン)」という琵琶を仏前に据え置き、僧都行慶が管絃講(音楽法要)にて弔いますと、経正の幽霊が現れます。その姿は「あるか、なきか」で、見え隠れしながら夢まぼろしに近づくのです。しかも、形は消えても声は残り、言葉を交わす事が出来るのでした。やがて経正は、琵琶を懐かしく弾き、遊舞の袖を翻します。しかしそれもつかの間、修羅道の苦しみに襲われ、その我が姿を人に見られることを恥じ、灯火を自ら吹き消し、闇の中へと消え失せます。
我が心の猛火に身を痛めながら太刀を打ち振り、その身を恥じて、火を消し給え消し給えと繰り返し言う姿は、まだうら若い経正のまだ生きたいという心の叫びなのでしょうか?それとも経正を慕う人々の名残惜しさの象徴なのでしょうか?


