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道成寺(どうじょうじ)
まず道成寺は他の曲とは違い、地謡・囃子方が着座した後、狂言方によって、60kg程の重量の鐘が持ち出され、鐘後見により吊り上げられます。この鐘が終始観客に威圧感を与えるのです。能舞台の天井と笛柱に備え付けられた、滑車・環は道成寺の為だけにあります。
紀伊国・道成寺では、“ある事情”により、長らく絶えていた鐘を再興し、供養が行われる事となりました。住僧は能力に、“ある事情”により女性を一人も入れてはならぬと、女人禁制を言い渡します。
そこへ、この国の片田舎の白拍子が鐘供養を拝みにやって来ます。鐘の供養に舞を舞うとのたっての申し出に、能力は許可をしてしまいます。烏帽子を借り受け、桜満開の中、「橘道成朝臣が君の仰せを承り、伽藍を建立せし故に、橘道成興行の寺なればとて、道成寺と名付けられる」と謡いながら、拍子を踏み、舞を舞います。そして、人々が寝入った隙を見て、鐘楼に近づき鐘を撞こうとしますが、「思えばこの鐘が恨めしい」と、鐘の龍頭に手を掛け、鐘を落とし、その中へ消えてしまったのでした。 物凄い音と地響きに驚いた能力は、鐘楼に来て鐘が落ちた事を知り、住職に報告します。そこで住職は他の僧達に“ある事情”について語ります。 これがいわゆる安珍・清姫伝説を元とした話です。“昔、真砂の荘司の家に熊野へ参詣する山伏が泊まりました。荘司の娘は幼い頃より、その山伏が夫となる人だと父より聞かされ、恋したいます。しかし、ある日山伏に裏切られたと知るや、その後を追い、男を思う一念に、ついには蛇身となって日高川を泳ぎ渡り、道成寺まで来ます。鐘の中に隠れた山伏を見つけ、龍頭をくわえ七回り取り巻き、口から焔を出し、焼き殺してしまったのでした。
そこで、先程の白拍子も昔の女の怨霊であろうと、五大明王を念じ真言を唱えて一生懸命祈ると、誰も撞かない鐘が鳴り出し、引き上げられ、中から蛇体が現れます。法力により祈り伏せようとする僧達に激しく襲いかかりますが、ついに祈り伏せられ、鐘に向かって吹く息は猛火となり、わが身を焼き、日高川に飛び込み姿を消すのでした。
「道成寺」は廃曲となった「鐘巻」を簡略化したといわれ、小鼓とシテのみで演じる乱拍子、そして鐘入りという、スリルに満ち、緊張の連続で、見せ場の多い大スペクタクル能に仕上がっています。観客も演者も気を抜く暇がない能なのです。初演の時などは、烏帽子を付けて舞を舞いだす前までに、普通の能一曲分の体力を消耗してしまう程です。鐘への怨念は、乱拍子の中で小鼓の気迫で激しさを増し、その歩みは道成寺の石段を蛇行しているともいわれ、蛇の鱗型、つまり三角に動き、その後、噴流の如き急之舞を経て、落下する鐘の中に飛び込みます。そして、暗い鐘の中、一人で装束を着替え、後場、住僧に祈られる中では、柱に背を付け、蛇の柱巻きを見せ、最後には日高川に飛び込む体で幕へ飛び込みます。
さて、白拍子は冒頭に 「作りし罪も消えぬべし 鐘の供養に参らん」、つまり、犯した罪も消えるであろうから、鐘の供養に参詣しようと言います。「鉄輪」という曲でも、心とは裏腹に「心静かに参詣申そうずるにて候」と言います。そこで道成寺では常とは違い、調子を高くとり、気を込めて、何やらただならぬ雰囲気をかもし出すのです。それ以降の謡も普通の女性とは違った、感情の激しい揺れを感じさせます。とにかく、シテも囃子もかなりの気迫が必要とされます。恨みのあまり大蛇となるくらいなのですから。しかし、彼女の本当の目的は何だったのでしょうか?鐘に飛び入る前には「撞かんとせしが 思えばこの鐘恨めしやとて」と、一旦は鐘を撞く為に近づいていることになります。しかし恨めしさの方が勝るわけです。男を恋慕うあまりにこのような結果になるのですが、我が罪を悔い改め、本当は成仏を願っているのではないでしょうか? 後半に使われる般若(ハンニャ)という面には角が生え、鬼のような形相ではありますが、よく見ると非常に悲哀に満ちた表情をしています。男をまだ知らない少女のいたいけな気持ちが、あまりに純情であるが故に、その執念の凄まじさが逆に納得できるのです。やはり女性の立場で作られた能のような気がしてなりません。
能楽ゆかりの地
恋い慕った安珍の裏切りにより、蛇身となった清姫は、ここで初代釣鐘を焼く
「龍頭をくわえ 七まとい纏い 焔を出だし 尾を以って叩けば」
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安珍塚
大蛇となった清姫によって焼かれた鐘は安珍の亡骸と共に埋めたとされる。この塚には、清姫の恨みでねじれた木が、今も生える。
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再興鐘楼跡
「この程再興し 鐘を鋳させて候」
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道成寺山門
能 道成寺の乱拍子は、この階段を登るを表すとも云われる。「急ぎ候程に 日高の寺に着きて候」
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道成寺本堂
源万寿丸清重によって、本堂が改築され、2代目釣鐘が作られた。「花の外には松ばかり 暮れ初めて鐘や響くらん」
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妙満寺
1585年、紀州攻めをした秀吉によって持ち去られた鐘は、京都妙満寺にある。
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2代目釣鐘
安珍清姫の事件(928年)から400年後(1359年)、源万寿丸清重によって作られた。