能を観る
江口(えぐち)
諸国を巡っている僧が津の国天王寺詣での途中、江口の里に着く。江口の君の旧跡を懐かしみ、昔西行法師が一夜の宿を主の遊女に断れて詠んだ歌、『世の中を厭うまでこそかたからめ 仮の宿りを惜しむ君かな』と口ずさむ。するとどこからともなく現れた女に宿を惜しんだのではないと咎められる。女は遊女の返歌、『世を厭う 人とし聞けば仮の宿に 心とむなと思おばかりぞ』と詠み、江口の君の幽霊であると明かし消え失せる。その夜僧がその霊を弔っていると、川舟にのった江口の君と侍女達が現れ、遊女としてのこの世の無情、悲しみ・華やかさ・迷いを説く。そして舞を舞い、普賢菩薩の姿を現し、舟は白象となり、月光の中白雲に乗り西の空へと消えて行く。
西行法師と江口の君の歌問答の故事をもとに、遊女が普賢菩薩であったという説話を取り合わせて作られている。 遊女は西行が世捨て人であるから仮の宿に執着なさらない方がよいと思い、宿を断ったのであった。一夜の宿もこの世も仮の宿だと説く。
さて、注目すべきは里人によって語られる間狂言の部分。
播磨の書写山の性空上人が生身の普賢菩薩を拝みたく観音にご祈誓すると、江口の長を見よとのご宣託であった。上人は江口に赴き、長をはじめとする遊女達と宴を囲む。眼を閉じると江口の長は普賢菩薩の姿となり、供の遊女達は十羅刹女となって菩薩を守っている。眼を開くと江口の長、眼を閉じると普賢菩薩であった。そこで上人は紛れもなく江口の長が普賢菩薩の再誕であると信じ、念願を果たしたのだった。
この能の最後の場面でこの上人と同じ体験を僧がするのである。 濁悪の世に苦しむ遊女から一転し、月光のもとで浄化された舞を舞う。上人が見た普賢菩薩を舞台上で再現する。 人は日常にバタバタ・ゴタゴタ・イライラ等色々抱えていますが、観客の皆様も同じ追体験ができるように過去の経験を生かし、心身に非日常を宿らせ、浄化された姿をお見せできればと思います。


